成功体験を重ねる
2011年 12月 10日
ここ一週間ほど、娘とウズウズした話し合いが続いていた。
ピアノのコンクールの選曲のほうを先生がしてくださり、その曲を聞いて開口一番、「やりたくない…!」「コンクール絶対出たくない!」と言い出したのである。スタートから一年たってない割には習得の早かった娘であるが、コンクールのレベルになると、また一段難しい曲が選ばれる。先生が弾くのを聞いて、ギョッとしたらしい。
さらに、娘の通うピアノ教室では去年、そのコンクールで三人が全国大会まで残り、そのうち二人が受賞している。その子たちのピアノをDVDで見せられて、「自分はこんなの絶対できない!」と言い出した。確かにその二人は音大に行ってもおかしくないレベルというか、小さいうちでもこれだけ「違う」ものかと驚かされる実力である。
娘は基本的に前向きな性格である。発表会に出ることもちっとも嫌がらず、「やってみようか」といわれたことは、あまり食わず嫌いせずにやるタイプ。ところが、コンクールだけは涙を流して嫌がるではないか。「絶対いやだ」「間違えたら恥ずかしい」と。
私はここで、「自主性を重んじる」か、それとも「とにかくやらせてみる」か、大変に悩んだ。
娘とさんざ話し合ったが、娘は「絶対無理」の一点張りで、人の話を聞こうとしない。
ピアノの先生は、「ピアノが嫌いになってしまったら元も子もないので、ダメそうだったら絶対無理しないでください」とおっしゃられていた。「ただ、出場したら大きな自信にはなりますよ」とのこと。
ここで私は娘に言った。「私、やらないうちから『出来ない』っていうの嫌いだな…」と。手をつけないうちから「出来ない」と放り投げてしまうことはして欲しくない、とにかく練習をしてみて、あまりにダメそうだったら潔く止めよう、と娘に言ってみた。「ダメそうだったら、本当に止めさせてくれる?」と娘が聞くので、「約束する」と言ったところ、「じゃあ練習だけはやってみる」と言ってくれた。
今日のレッスンでも娘はまだふくれっ面をしていて、「コンクールやっぱりヤダ…」と先生に文句を言っていた。先生は、娘のためにコンクールの曲をセクションごとに譜面にしてくださっていて、これは大変に助かった。全体を見るとぎょっとしてしまう譜面も、セクションにすると意外と単純に見え、これを組み合わせればゴールなのかと思えば何とかなる気がしたようだった。娘は「意外とできそうかも…」と気持ちが軽くなったようで、帰る頃にはグズグズ言わなくなった。
私ははなから予選通過して欲しいとか、受賞して欲しいとか全然考えていない。(本当はそれじゃダメなんだけど…笑) 楽しんでやって欲しいとか奇麗事も言いたくない。コンクールのための練習は、とてもじゃないけど楽しめるようなものではないと思っている。発表会と違って、プレッシャーが違う。昨年のコンクールでは、最後親御さんたちも感極まって泣き出したらしい。親にとっても鍛錬である。
ただ、「自分でもコンクールに出場できた」という成功体験は、5歳の娘にはすごく大きいはずだ。
私は育ってくる過程で、「成功体験」が得られなかった。
有名な中学に合格し、有名な大学に入学し、有名な大学院に入学した。その三箇所でしか、親に褒めてもらえなかった。だから、いい学校に入ること以外に、どうやって自分で自分を褒めてあげれば良いのか分からなかった。大学院に長くいたことは、私の「学歴依存」をますます悪化させたように思う。学校の名前がなければ自分自身が認めてあげられない、だから、学校から離れられない、それで博士課程までダラダラと残った。もっと恐れから自由でいたら、私は修士でやめて就職していたはずだ。それが怖くて出来なかった。
小さな「成功体験」を積み重ねる。人生、それがどんなに大切か。
途中で止めてもいい。とにかくやってみた。がんばった。その気持ちを味わって欲しい。
怖がるな娘よ。
いろんなことにチャレンジする人生であれ。
私もまだまだ、チャレンジしていくよ!
ピアノのコンクールの選曲のほうを先生がしてくださり、その曲を聞いて開口一番、「やりたくない…!」「コンクール絶対出たくない!」と言い出したのである。スタートから一年たってない割には習得の早かった娘であるが、コンクールのレベルになると、また一段難しい曲が選ばれる。先生が弾くのを聞いて、ギョッとしたらしい。
さらに、娘の通うピアノ教室では去年、そのコンクールで三人が全国大会まで残り、そのうち二人が受賞している。その子たちのピアノをDVDで見せられて、「自分はこんなの絶対できない!」と言い出した。確かにその二人は音大に行ってもおかしくないレベルというか、小さいうちでもこれだけ「違う」ものかと驚かされる実力である。
娘は基本的に前向きな性格である。発表会に出ることもちっとも嫌がらず、「やってみようか」といわれたことは、あまり食わず嫌いせずにやるタイプ。ところが、コンクールだけは涙を流して嫌がるではないか。「絶対いやだ」「間違えたら恥ずかしい」と。
私はここで、「自主性を重んじる」か、それとも「とにかくやらせてみる」か、大変に悩んだ。
娘とさんざ話し合ったが、娘は「絶対無理」の一点張りで、人の話を聞こうとしない。
ピアノの先生は、「ピアノが嫌いになってしまったら元も子もないので、ダメそうだったら絶対無理しないでください」とおっしゃられていた。「ただ、出場したら大きな自信にはなりますよ」とのこと。
ここで私は娘に言った。「私、やらないうちから『出来ない』っていうの嫌いだな…」と。手をつけないうちから「出来ない」と放り投げてしまうことはして欲しくない、とにかく練習をしてみて、あまりにダメそうだったら潔く止めよう、と娘に言ってみた。「ダメそうだったら、本当に止めさせてくれる?」と娘が聞くので、「約束する」と言ったところ、「じゃあ練習だけはやってみる」と言ってくれた。
今日のレッスンでも娘はまだふくれっ面をしていて、「コンクールやっぱりヤダ…」と先生に文句を言っていた。先生は、娘のためにコンクールの曲をセクションごとに譜面にしてくださっていて、これは大変に助かった。全体を見るとぎょっとしてしまう譜面も、セクションにすると意外と単純に見え、これを組み合わせればゴールなのかと思えば何とかなる気がしたようだった。娘は「意外とできそうかも…」と気持ちが軽くなったようで、帰る頃にはグズグズ言わなくなった。
私ははなから予選通過して欲しいとか、受賞して欲しいとか全然考えていない。(本当はそれじゃダメなんだけど…笑) 楽しんでやって欲しいとか奇麗事も言いたくない。コンクールのための練習は、とてもじゃないけど楽しめるようなものではないと思っている。発表会と違って、プレッシャーが違う。昨年のコンクールでは、最後親御さんたちも感極まって泣き出したらしい。親にとっても鍛錬である。
ただ、「自分でもコンクールに出場できた」という成功体験は、5歳の娘にはすごく大きいはずだ。
私は育ってくる過程で、「成功体験」が得られなかった。
有名な中学に合格し、有名な大学に入学し、有名な大学院に入学した。その三箇所でしか、親に褒めてもらえなかった。だから、いい学校に入ること以外に、どうやって自分で自分を褒めてあげれば良いのか分からなかった。大学院に長くいたことは、私の「学歴依存」をますます悪化させたように思う。学校の名前がなければ自分自身が認めてあげられない、だから、学校から離れられない、それで博士課程までダラダラと残った。もっと恐れから自由でいたら、私は修士でやめて就職していたはずだ。それが怖くて出来なかった。
小さな「成功体験」を積み重ねる。人生、それがどんなに大切か。
途中で止めてもいい。とにかくやってみた。がんばった。その気持ちを味わって欲しい。
怖がるな娘よ。
いろんなことにチャレンジする人生であれ。
私もまだまだ、チャレンジしていくよ!
by la-paz-paz-paz
| 2011-12-10 16:42
| 子育ち