下の記事で書いたとおり、いろいろに折り合いがついた今となって書けること。
「リアリティ」ってなんだろな?と。
私が幼稚園ママ友達との会話が苦手だった理由は
「表面的な話ばっかりするので、実りがない。つまらない。」ということだった。
子供のこと、近所のこと、料理のこと、幼稚園行事のこと…
いわゆる世間話。
こういう話を延々していても、私は「誰かと交流した」という実感が
全く得られなかったのです。
でも途中で変なことに気づいて。
じゃあ、私が「誰かと交流した」という実感が得られるような会話って何かって
「愚痴」「病気」「怪我」「人の噂話」「誰かの悪口」
こういう話をすると、「あ~なんか深い話ができたな~!」と思う自分に
気づいたのです。なぜか「人と交流した」「人と会話した」という感覚を得られたのです。
深く深く考察してみると
こういう会話に人付き合いの「リアリティ」を覚えてしまうのは
自分が育った家族において、こういう会話が一番歓迎されたからだと思うんですよ。
母の一番好きなのは、人の悪口・噂話、そして愚痴でした。
子供たちが好きなモノ、好きな友達のことも、
「いいね~」なんて絶対言ってくれない。まず否定から入る。
(いい学校に入ったときだけ、褒めてくれる。楽しい気持ちにさせてくれる)
その家庭にいる真っ最中は、そういうものだと思って暮らしていたんだけど
こういう会話が、自分の「リアリティ」を作り上げてしまっていたんですね。
よくアメリカにいるときに思ったんですが
英語で会話するときって、基本的にポジティブなトークが多い。
You can do it! You can make it! Good for you!
という言葉で常に彩られている。
学会発表とかしてもそんな言葉が返ってくる。
(日本の学会は「批判」から始める感じでした)
この英語でのトークが、自分はいつも歯が浮いたような気分になって
どうにも苦手だったんです。そのとき思ったことが
「英語で話すと表層的な話題でイヤだ…」ということ。
だから、私は英語の挨拶にも、常にネガティブレスポンズをしていました。
"How was your trip!?"
"It was too long. I'm tired." こういう感じで。
英語が多少話せる方なら分かると思うけど、
この反応は珍しい(笑。っていうか変な人だよね。
「リアル」「リアリティ」って、実は「現実」でもなんでもないんですよ。
作られてるんです。そう感じるように。
そう感じるように仕組んでいる「罠」を見抜かないと
人生がそれに振り回されます。
私、途中で自分が「リアリティ」を感じる会話・人付き合いが
育った家庭のなかで作られた「罠」であって
それは「現実」ではないということにはっきり気づいたんですよ!
幼稚園のママたちとする「世間話」は表層的でもなんでもないってこと。
その会話をそこでしていることがリアルそのものであって
その内容にリアルさを感じないというのは、私の錯覚に過ぎないんです。
だから、
リアリティなんて信じない、
今そこにあるリアルを楽しもう!と思いなおしたわけですわ。
そしたら、人生の彩りが変わってきた!
(最近、ブログに愚痴が減ったでしょ?それもそこからきてるの。
愚痴をつらつら書くブログこそ、「深い」ブログだと思っていた)
その「リアリティの虚構」に気づいたら
どんな人付き合いだって簡単にできそうな気がしちゃったのです!
目下の悩みは
娘が愚痴が多い子なんですよ。
これって絶対、私が作ったコードのせいだと思う。
今から子育てやり直し状態ですが、間に合うかな…笑